確率と結果

「学校通わぬ10歳ユーチューバーの父が批判に反論」という記事。なかなか興味深いですが、そもそも明治時代とか就学率は低く学校に行けない子供が大勢いました。小作人の子供は小作人、という時代でした。学が無くて苦労した、という話は昔も今もあります。どの子供も学校に通って教育を受けられるのは社会が進歩した成果なわけです。教育を受ける権利は憲法で保障されており、旭川学テ事件最高裁判例により国家と国民の両方の権利であり義務であるとされています。

とは言っても、学校に通った結果、いじめられて自殺する子供もいます。そう、全ては確率、全ては結果なのです。学校に通って学を身につけることがその子供がその後の人生を幸福に送れる最も高確率な方法(それを欠いたら幸福確率がガタ落ちするならほぼ必須の方法)であると社会が認定したから学校制度があります。一方、結果としてその子供が幸福な人生を送れば、遡ってその子供に対して行なった教育は適切だったことになります。この記事の子供も、将来親を恨むことになるか親に感謝することになるか、いずれ結果は出ます。現時点での評価としては「ハイリスクハイリターン」なことをしているな、とは思いますけどね。


関連する記事
コメント
憲法で保障されているから、卒業証書だけはあっても、実際には義務教育を受けていない人もいます。もし、そのときに誰かが教育委員会に告げれば、通わせてもらえたのでしょうか。子供が働かなければならなかった家庭の事情があった場合は、学校に通わせられたら、奉公先も、奉公に出した親も困ったことでしょう。事実は小説より奇なりです。憲法さえも届かないところで生きている人が存在するのです。況んや他の法律や法制度をやです。卒業証書が出されているのですから、読み書きできるとなり、国の、識字率の統計も鵜呑みにできないものです。私は、義務教育(現在では、実質的に高校まで)を受けることの大切な意義は、知識や思考力のみならず、社会化、社会性を身に付けることにあると思っています。高いコミュニケーション能力は、誰もが得られる訳でもありませんし、必ずしも必要だとも思いません。しかし、沢山の相手はどう考えるか、どのようなことを言うか、そのときにどう接し、言葉を発し、関係性を持ち、保つかは、義務教育の年代に、共に遊ぶことも含めて、集団の中でないと学ぶことが出来ない人間としての基本ではないかと思います。幼稚園保育園の無償化、高校の無償化、今度は低所得者世帯の大学、専門学校等の無償化が決まりました。果たして、学費を無償にさえすれば、進学し、学生生活を他の生徒や学生と等しく送れるものなのでしょうか。学費以外にかかるお金もありますし、それよりも、当たり前に、生活や子供にかけるお金は家庭により相当違います。極端な例を挙げれば、元々、自宅にプール、住み込みのお手伝いさん、お抱え運転士等、が当たり前の家庭ばかりの学校に『無償で』入ったら、友人付き合いも出来ないと思います。戦後の学制改革の公立の小中学校ならば、地域が限られていることで、例えば都営住宅があれば、普通に通うことができましたし、今もそうではないかと思います。家庭教育が肝腎なことは申すまでもありませんが、それは、文化の違いとして、表れてくるように思います。
  • N.Yamamoto
  • 2019/05/12 7:09 PM
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック

calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< May 2019 >>

profile

links

categories

recent comment

archives

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM