小中高休校要請

今回の小中高一斉休校要請を批判する立場を分類してみた。

,修發修盍鏡しても仕方ない説。弱い人は死に、強い人は抗体を持つ。それでおさまる。感染症とはそういうもの。こう割り切れば話は終わりである。対策自体をする必要が無い。しかし、中共を見てそこまで割り切れるかどうか…。⊂中高を休校にしても感染の広まりに有意な差は無い説。それなら欠点のみ目立つのでやらない方が良い。しかし、子供はあちこちを触るのであり、それが集団で行動する学校を介して社会に感染が広がるのを否定できるかどうか…。7臈世諒が大きい説。突然こんなことを言われても、仕事もあるし子供だけを家に残せない人が大勢いる。確かに欠点も困惑も損害もあるが、感染者を有意な差で少なくできる利点より大きい欠点を言えるかどうか…。し臈世鮠さくする対策と一緒に要請すべき説。それなら迷惑する人を最小限にできる。しかし、その対策を作るのに何日、何週間かかるのか。その間に増える感染者は諦めていいのかどうか…。ゴ鏡者が出ていない県は除くべき説。休校の必要があるのは感染者が出ている都道府県だけ。しかし、人々の行き来は多く、検査はそんなに多くやっているわけではない。市中感染が始まっていて潜伏期間が27日間もあるとすれば、全く感染者がいない県が存在するのかどうか…。

色々な催し物の中止にも当てはまる。休校にせよ中止にせよ、そのこと自体を否定する立場と、そのこと自体は肯定するがそれ以外の点が不十分という立場とでは、全く異なる批判である。思うに、催し物で「ファンのために開催したい」という理屈は成り立たないだろう。人が集まれば感染の危険が高まるのは否定できない。すると、開催すること自体が「ファンに感染が広まっても仕方ない」ということである。それでも「自分が倒産したくないから」開催するという論理的帰結にならざるを得ない。主観において「認識→認容→意欲」の3段階のうち2段階目「認容」まであれば故意は成立する(「認識ある過失」に当てはめる手もあるか?)。実質的に成り立つ批判は前記 銑イ里Δ舛猫,里澆塙佑┐襦あとはそれを選択するかどうかだけだ。利点のみあって欠点がない選択肢は存在しない。なぜならそれは既に選択されているからである。欠点がある選択肢を選択するのが政治であり、政治は結果責任である。そう遠いことではない。今回の要請については5月には「結果」が出ているだろう。なお、同じ選択肢は世界中の政権担当者に示されている。5月には「点数付け」もなされるだろう。


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