五摂家

五摂家とは、藤原氏の嫡流で公家の家格の頂点に君臨する家柄である。近衛・鷹司・九条・二条・一条、の5家というところまでは知っている人も多いだろう。しかしこの5家、今はWikipediaという便利なものがあり、誰でも簡単にその「内実」(男系で継承されているの?)を調べることができる。

そもそも五摂家の共通祖先は藤原忠通(1097-1164)である。弟に「悪左府」頼長がいると言えば時代がわかるだろう。忠通の子の基実が近衛家を、基房が松殿家を、兼実が九条家を興した。ここで「三摂家」となり藤原を冠さないようになったのである。ただし松殿家は木曽義仲と組んだこともあり2代で断絶した。基実・兼実から4代目に、近衛家から鷹司家が、九条家から二条家と一条家が分家した。ここで五摂家体制となった。鎌倉時代のことである。五摂家の「始祖」は、近衛家は三摂家時点の基実(1143-1166)又は五摂家時点の兼経(1210-1259)、鷹司家は兼平(1228-1294)、九条家は三摂家時点の兼実(1149-1207)又は五摂家時点の教実(1211-1235)、二条家は良実(1216-1271)、一条家は実経(1223-1284)、となる。ここからどのように継承されているのだろうか。

なんと、早くも九条家が道教(1315-1349)で嫡流は終わり、二条家から経教が継いだ。もっとも二条家は九条家の分家であり遡れば九条家なので実質的には九条家のままということだろうが。また、一条家も経通(1317-1365)で嫡流は終わり、二条家から経嗣が継いだ。ここで早くも一条家は終わり、内実は二条家(遡れば九条家)になったのである。まあもともと九条家からの分家なのでそういうものかもしれないが。この時点で九条流は二条家で「統一」されてしまっている。

その後しばらく無事だったが、なんと鷹司家が忠冬(1509-1546)で断絶してしまった。ここで「四摂家」になったのである。33年も後の1579年に二条家から信房が再興した。ここで内実は二条家になったのである。織田信長の勧めということだが、近衛家ではなく二条家から再興した事情とは…それにしてもこの時点で五摂家のうち四摂家まで二条流になっている。なお九条家が稙通(1507-1594)でまた終わり、また二条家から兼孝が継いだ。

ここで新たな事態が。なんと一条家が内基(1548-1611)で終わり、後陽成天皇の第九皇子「一条昭良」が継いだのだ。ここで一条家はいわゆる「皇別摂家」となった。同時期、近衛家も信尹(1565-1614)で嫡流は終わり、後陽成天皇の第四皇子「近衛信尋」が継いだ。近衛家も「皇別摂家」となった。両者の母親の父親は近衛前久だが…なお両者の兄に後水尾天皇がいる。同時期、二条家が昭実(1556-1619)で嫡流は終わり、九条家から康道が継いだが、この人物は遡れば二条家に行き着くので、実質的には二条家のままである。つまりこの時点で五摂家は二摂家が皇別、三摂家が二条流となった。

その後、九条家が道房(1609-1647)で終わり、鷹司家から兼晴が継いだが、そもそもその時点で鷹司家は二条流なのだから、実質的には二条家である。また、二条家も光平(1625-1682)で終わり、九条家から綱平が継ぐが、この人物は遡れば二条家である。その後、一条家が冬経(兼輝,1652-1705)で終わり、鷹司家から兼香が継いだが、この人物を遡ると二条家に行き着くので、一条家は皇別でなくなり二条流に戻った。ところが鷹司家が兼煕(1660-1725)で終わり、近衛家から房煕が継いだが、その時点で近衛家は皇別なのだから、ここで鷹司家も実質的に「皇別摂家」となったが、その流れはその弟の尚輔(1726-1733)で終わり、一条家から元輝(1727-1743)が継いだ。この人物は遡れば再興時の信房に行き着く。要するに二条流である。二条家も宗煕(1718-1738)で終わり、九条家から宗基が継ぐが、この人物も遡れば二条家である。一方で鷹司元輝は子が無く終わり、閑院宮直仁親王の第四皇子「鷹司輔平(1739-1813)」が継いだことで鷹司家はまた皇別摂家となった。この人物は光格天皇の叔父である。その後、九条家が輔家(1769-1785)で終わり、二条家から輔嗣が継いだが、この人物は遡れば九条家で、さらに遡れば二条家となる。九条家と二条家の行き来は多い。

明治になって動きが多くなる。一条家が実良(1835-1868)で終わり、なんと格下の醍醐家から忠貞(1862-1882)が継いだが、この人物を遡ると一条昭良、そして後陽成天皇に行き着く。つまり実質的な皇別摂家である。九条家も尚忠(1798-1871)で終わり、鷹司家から幸経(1823-1859)が継いだが、その時点で鷹司家は皇別なのだから九条家もここで実質的に「皇別摂家」となったが、子が無く終わり、九条尚忠の子の道孝が継いだので、元の二条流に戻った。ところが鷹司家が輔煕(1807-1878)で終わり、九条家から煕通が継いだ。ここで鷹司家は皇別でなくなり九条家(二条流)となった。同時期、二条家は斉敬(1816-1878)で終わり、九条家から基弘が継ぐが、この人物は遡れば二条家である。そして一条家が忠貞の不行跡でなんと格下の四条家から実輝(1866-1924)が継いだが、この人物を遡ると醍醐家、一条昭良、そして後陽成天皇に行き着く。実質的に皇別摂家のままである。

この時点で、二摂家が皇別、三摂家が二条流に戻っている。ここまでは五摂家は二条流か皇別ということで血統の格を保っていた。

ところが大正になって一条家が実輝に子が無く、なんと格下の大炊御門家から実孝(1880-1959)が継いだが、この人物を遡ると中山家に行き着く。中山家の祖は最終的には藤原忠宗の息子であり、五摂家(藤原嫡流)との共通男系祖先は忠通の3代前の師実まで遡る。つまり、藤原氏ではあるが五摂家(摂関家流)とは別系統(清華家であり格下)、さらに遡れば中山家(羽林家でありもっと格下)ということになる(公家の家格は「摂家━清華家━大臣家━羽林家━名家━半家」)。家格がかなり落ちたと言える。

さらに戦後に状況が大きく変わった。近衛家が文隆(1915-1956)で終わり、なんと細川氏から忠が継いだのだ。この人物は細川元首相の弟だが、遡れば戦国武将の細川藤孝に行き着く。つまり今の近衛家は細川流であり、皇別でないどころか藤原氏でも公家でもなく武家なのである。もっと驚きは鷹司家で、平通(1923-1966)で終わり、大給松平家から尚武が継いだので今の鷹司家は大給松平流だが、これを遡れば鍋島氏であり、戦国武将の鍋島直茂に行き着く。やはり皇別でないどころか藤原氏でも公家でもなく武家なのである。

結局、現在は、近衛家は細川流、鷹司家は大給松平流(鍋島流)、九条家は二条流(遡れば九条家)、二条家は二条流、一条家は大炊御門流(中山流)、ということになる。これに対する評価は人それぞれ。ただ、継承という事実について点をつければ、二条家は100点、九条家は80点、一条家は60点、近衛家と鷹司家は0点、ということになるだろう。


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