2010年

管理人の好きな作家の一人にアーサー・C・クラークがいます。名作が多いですが、今日という日に思い起こされるのが「2010年」です。クラークの作品は、徒に人間ドラマに逃げずSFを貫いているのが素晴らしい(ただし共著を除く)。
「2010年」の原作では、中国が米露に匹敵する宇宙大国として単独で宇宙船を飛ばしていて、物語上も結構頁数を割いているんですよね。米露が先を越されそうになったんだったような…
それに対し、映画版では中国は全く出てきません。映画公開当時は、観る人にとってむしろそのほうが自然に感じたでしょう。しかし、いざ2010年になってみて、今の感覚ならどうでしょう?
クラークの慧眼に驚かされるのは今に始まったことじゃない、というところでしょうか。


文明度

先進国か発展途上国か、というのは経済発展の度合いによってのみ計られるものですか。全ての国が経済的に豊かになりたいでしょうから、現時点で経済的に発展していない国は、経済的に発展すべく努力している(少なくとも主観的には)以上、確かに、「後ろに進んでいる(?)」国ではなく、「発展の途上にある」国です。

文明国か野蛮国か、これはどうでしょう。文明の度合いは何によって計られるのか。管理人は「政治的言論の自由度」によって計られると考えます。要するに、一般人が顔と名前を晒して(さらには匿名で)、政治家を、政権を、政権が実施する政策を、そして最高権力者を、ボロクソに批判できるか、自らの主張を広く知れ渡らせることができるか、ということ(これが可能な国では必然的に民主的代表制度ができるでしょう)。これについては、全ての国が政治的言論の自由度を高めようとしているわけではないようですから、政治的言論の自由を意図して低く抑え込んでいる国は、文明の「発展途上」国ではなく文明の「後進」国ということになります。すなわち野蛮国です。


殿は何も御存知なく

殿は何も御存知なく、此度の事は家老である拙者の一存で為したもの…グフッ

ていうか、代々政治家だと何故金が貯まるのでしょう?政治家は営利事業ではないでしょう?政治家だから金持ちになるという必然性は全く無いはず。この調子だと、国が財政破綻するのを「部下に全てを任せていたので全く知りませんでした」ということになる悪寒。親が金持ちだから政治家ができるというのは、なんともツマラナイ国です。


刷新会議の一存

行政刷新会議の事業仕分けで「無駄」な公共事業がバッサバッサと切り捨てられ、個々の事案によっては反対論も巻き起こっていますが、そもそも一般国民は「天下りはケシカラン!」「渡り(の度に退職金をガッポリ貰うの)はケシカラン!」という程度で、個々の事案について「この事案は民営化すべき」「この事案は民営化すべきでない」という見識を持っていたら、それはもう民間「有識者」でしょう。

そもそも、天下りを禁止したらどのような弊害が生じるのか。いや、もっとそもそも、天下りを禁止することは可能なのか。

今天下りをしている人は、昭和30年代や40年代の日本がまだ(今よりは)貧しかった頃に官僚になったのでしょう。その頃、「次官まで出世できようができまいが、いずれにせよ天下りで高額の収入が保証されているから官僚になろう」と思っていたのでしょうか。今官僚になる年頃の人は、「天下りが禁止されれば生涯収入が民間と大差に劣るから官僚になるのはやめよう」と考えるのでしょうか。別に、(天下り先ではない)官僚を辞める際の退職金を禁止するわけではない(むしろここは増額してもよい)のですから、天下りしなくても貧乏な生活を送る羽目にはならないでしょう。また、高額の収入を得て贅沢をしたいのなら、それこそ民間の大会社に就職するなり起業するなりすべき人なのであって、そういう「人材」が官僚にならないことが弊害とは思えませんし、そういう人以外に優秀な人材がいないとも思えません。くどいようですが、貧乏するほど低い収入になるわけではないのですから。

また、天下り(の受け入れ)や天下り先の報酬や退職金は「民間」が「任意」に決めていることだから、国がそれを禁止することはできない、という考えはどうでしょう。それは正しい理屈ですが、正しい理屈を言う人間は信用できませんね。国が、天下りする者の報酬を抑えさせたり退職金額を減らさせたりする立法をした場合、国民が諸手を挙げて支持すれば、誰もこれを否定できません。最高裁が否定しても関係ありません。そもそも最高裁判例が出るまでに何年かかるのでしょうか。日本の裁判は個別事案を扱うものであり、抽象的に法律自体を違憲審査する手続はありませんので、個別の事案で国家賠償請求訴訟(差止請求訴訟か?)を提起(官僚が「俺が就職するのを邪魔するな」と?)して、地裁・高裁・最高裁と争っていくわけです。それまでに世の中の動きは固まっていますよ。

まあ、なんだかんだ言っても、事業の廃止と天下りの禁止とでは「節約」できる金額のケタが違うでしょうから、相対的には瑣末な問題かもしれません。しかし、瑣末な問題でも国民が強く支持することは重要な問題ということにしてそれを強く押し出して支持を得るのが政治というものであり政治家というものであるでしょうから、そういう動きが出ないなら、それは政権与党と天下りする人との利害が一致しているというだけのことで…


今の子供はものごころついた時から

「今の子供はものごころついた時から」に続く言葉は、当然ながら時代とともに変わります。

ラジオを聞いている/テレビを見ている/カラーテレビを見ている/毎日肉を食べている/海外旅行をしている/毎日漫画を読んでいる/携帯電話を持っている/インターネットを使っている/2ちゃんねるを見ている

それにしても、子供の頃から2ちゃんねるを見て育った人間が大人になると…インターネットリテラシー(ていうか、「嘘を嘘と見抜く能力」)が高くなりそうですね。いや、これは大変重要なものですよ、ほんと。「えらいひと」が言うことに従ったらえらいことになった、というのが人類社会の歴史ではよくあることですからねぇ…


今日の一言

人は、自分の属する業界以外の業界については、「規制緩和・競争原理でやるべき」と言う。


坂本龍馬

坂本龍馬が若者に人気があるのは、若くして非業の死を遂げたからです。これが、大正時代まで長生きして坂本財閥の創業者となり、TVで「旧坂本財閥創業者の直系子孫で坂本家第6代当主である坂本龍太郎氏53歳が、坂本ホールディングス株式会社の代表取締役社長に就任しました」などというニュースが流れるようでは、若者に人気は出ないでしょうね。


煙草の害

煙草税値上げの議論が喧しい今日この頃。

思うに、煙草の害は、他人の肉体的な健康を損なうことよりも、本人の精神的な健康を損なうことにあります。傍にいる人が嫌がっているのに、困っているのに、それでもかまわないと思う気持ち。それは素朴な点で人権感覚が鈍磨しているということにほかなりません。愛煙家が何を言おうと、所詮は中毒患者による結論ありきの言に過ぎないのです。このことについて管理人は一つの寓話を考えていますが…


ささいなこと

誰しも日々の生活において何もかもうまくいくわけではないでしょうが、何かがうまくいかなかったとき、客観的には非常に些細な問題であることがままあります。「冷静になって考えてみたら、たいしたことじゃないよなぁ…」

閑話休題。親からウン億円もらっていたのに知らなかったなんて、どんだけ恵まれた家庭に育ったんだよ。これが贈与ではなく貸付ということでまかりとおるなら、世間の親御さんたちもみんなそうするだろ、常識的に考えて…これはささいなことではないな。


政治権力世襲禁止法?

先の総選挙では、与党野党ともに世襲制限を主張していたと記憶しているのですが、結局あれはどうなったのでしょうか。与党野党の両党首とも世襲の権化のような人物だっただけに、かなりシュールだったのですが。

日本は明治維新で社会体制が一変したわけですが、明治維新(1868年)から太平洋戦争終了(1945年)まで77年。ここでまた社会体制が一変したわけですが、それから今年(2009年)で64年。そろそろまた社会体制が一変する時期が近づいているのかもしれません。社会体制が一変するとは、それまでに築きあげた地位や財産が一度御破算になって、また最初から競争し直す「ガラガラポン」が行われる、ということです。

物事を単純化した思考実験として、まず、革命により一旦全ての人間の地位や財産が平等な状態となったとします。この革命第1世代は、出発点は同じでも、それぞれの人生においてそれぞれの努力と能力と運の差により、地位や財産に差が生じます。しかし、地位が高くなり財産が多くなった者に対し、そうでない者は、妬みはしてもその差を不合理とは感じない。自分にもそうなる可能性はあったのであり、そうならなかったのは自分の責任であるからです。

ところが、革命第2世代はそもそも出発点が違うわけです。地位が高く財産が多い者の子に生まれた者とそうでない者とでは、高い地位を獲得し多くの財産を築く競争に圧倒的な不均衡があるのは自明のこと。持つ者の子はより多く持ち、持たざる者の子はより少なく持つ…。革命第3世代・革命第4世代と、その不均衡は強固に維持され、その差は拡大再生産されていきます。そして、その差を不合理と感じる人がだんだん増えていく…

結局のところ、相続──自分が築いた地位や財産は自分の子にこそ承継させたいのであり、アカの他人には絶対に渡したくないという気持ち──が全ての人に存在する普遍的な欲求であり、それを否定することができない(さらに思考実験として、所得税0%で相続税100%という理念の税制にすると社会はどうなるのでしょう?)以上、理屈はそれぞれの時代で違うものが唱えられるにせよ、要するに、人間社会は定期的に「ガラガラポン」がなされる宿命なのかもしれません。


アキバ21防犯パトロール

本日、「地域連携部会“アキバ21”防犯パトロール」が行われ、管理人も参加しました。街にいらっしゃったお客様が気持ちよく歩ける環境は、とても大切です。パトロールでは、警察官を先頭に秋葉原の街をそれぞれ十数人の2グループで練り歩きました。今回管理人が担当した(?)のは、各店舗が商品や立看板の類を道路にはみ出して置いてあるという違反の是正。店の人に注意するのはもちろん警察官で、管理人はこの違反についての注意のチラシを店の人に渡す役目でした。

この種の違反にはとても堂々としたものもあって、例えばメ○○○○○ーなどはアサクリ2の宣伝の(機器を設置する)ために道路を一部衝立で囲ってしまっていました(直ちに撤去するよう警察官が強く求めましたが…)。

この種の違反はどの店主にとっても「馬鹿正直にルールを守って商売ができるか!」ということなのでしょうが、もし全員が違反したら道路が大変なことになり、来街客が歩けなくなってしまいます。つまり、「馬鹿正直にルールを守っている」店が大半の中、自分だけ違反するから旨味があるわけです。典型的なDQN思考と言えましょう。


ブラタモリ

最近、Google書籍検索和解に関するシンポジウムやセミナーの類が本当に多くて、管理人は興味があるためにハシゴしていたりします。今日もまた、クラスアクションに関する国際セミナーが…。でもGoogle書籍検索和解って、以前書きましたが、「もともと無かった『外国での著作権』がベルヌ条約により『外国でその国の人と同じ待遇を受けられる』が故に認められている」という著作権の理屈からすると、「その国でその国の人と同じだけ著作権が制限される」ことはやむを得ないことになる気がします。それを否定するのは、結局のところは価値判断による一般条項なんじゃ…。でも、作家本人は必ずしも反対の人ばかりじゃないはず。要するに、「売れない作家」にとっては有難い話なわけで…。出版社は全てが反対しているようですが、それってラッダイト運動の意味があるのでは…

とかいうことを考えながらTVを見ていたら、秋葉原をタモリが歩く番組ががが。秋葉原GIGOの外看板がラムっていつだよ…ていうか、出演者がかなり薄着…どう見ても夏です。数ヶ月前に収録したんだなぁ。収録から放送までこんなに期間がかかるものなんですね。


古稀

七十、古来稀なり。

七十に至らず、現代稀なり。

昔は55歳が定年だったそうで(?)、現代の感覚では、下手したら(?)定年後のほうが人生長いのでは…。世界で最も進んだ高齢化社会においては、世界のどこにも存在しない(=世界の誰からも非難される)倫理が生まれるでしょう。必要は発明の母ですから…。主権在民だってそんなものだったのではないでしょうか。



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